西宮スタジアム撤去開始

94年から10年間大阪に住んでいた。その後半5年間、西宮競輪場は最も多く通った博打場だった。ゴボウ天とこんにゃくのおでんを2本100円で売っていた場内の露店で、何も言わずに100円渡したらスッとゴボウ天が2本出てくるようになるくらい通った。人もハコもなにもかもが汚かった。園田競馬場も汚かったが、なにかカラっとした明るさがあったような気がする。西宮には猥雑な・・・アジア的な明るさがあった。


とりわけ汚くて明るい人達は外野スタンドの狭い一部分に集まっていた。広いスタジアムの中で、レース全体を見渡せる場所がそこしかなかったから。音楽が流れ外野スタンド下の敢闘門から選手が出てくると、スタンドはフリージャズのステージと化す。ヤケクソ時の渋さ知らズのような、混沌としながらも楽しく狂えるフリージャズだ。金網を引っつかんだソロイスト達が得意の野次フレーズを連呼しはじめると、祭りは最初のピークを迎える。スタンドと反対側にある発走機に選手が着くと、一瞬の静寂。しかし、周回中もクライマックスに向けて祭りは続く。赤板を過ぎ、打鐘を迎えようとしても誰も動かない。客の誰かが「来たあああああああ!」と大声で叫んだ。正攻法位置に着けていた先行屋が、他ラインが仕掛けていないのに、その声に弾かれたように踏み出す。スタンドのボルテージが上がる。競走が終わり選手が敢闘門に帰ってくると、「ボケ!」「カス!」「コジキ!」のポリリズムの中、客に騙され逃げ潰れた先行屋にじじいのダミ声が飛んだ。
「このエチオピア!!」*1


西宮競輪のレースで一番印象深かったのは、最後のレースでもある2002年の開設記念後節決勝戦だ。西宮最後の日ということもあって、平日にも関わらず7000人以上の客入り。阪急西宮北口の駅前ロータリーでは、大入りの客を当て込んだコーチ屋が商売していた。
最後のレース。人気は4車揃った小嶋率いる中部勢。しかし、地元近畿勢の優勝で最後を飾るべく、先行するのは村上だろうというのが大方の予想。番手の渡辺は、縦の脚は無いが、横に来た敵はなにがあっても張り飛ばすマーク屋の鑑。自分は死んでも村上を守るだろう。村上と近畿3番手水島の車券を本線に据えた。
赤板前から村上が先行。ヤケクソ捲りの近藤を最終バックで渡辺が止める。3コーナー、その上をさらに稲村が襲いかかった。「張れええええええ!」「渡辺ぇ!仕事やああああ!」古き良き競輪道と己のスケベ車券を信じて疑わない客の声がスタンドにこだまする。渡辺は稲村をもきっちり仕留めた。そして、村上に食い下がって2着に入ったのだった。前に居たオヤジが「渡辺、ついていきおったなあ」と苦笑しながら階段を降りていった。「水島が恵まれるはずやったんやけどなあ」と応じる私。近畿ラインの競輪は美しかったが、客も競輪場も最後まで薄汚かった。


跡地には百貨店が建つそうだ。

*1:西宮&甲子園競輪によくいたじいさんが、自分が買ってるのに頭の悪いレースをして負けた選手によく浴びせていたヤジ。「この知恵遅れ!」というバリエーションもあった。