なぜ競輪なのか

雨天にて、昼から自宅で本を読んだり、岸和田BBでキャスターと客の漫才を聴いたり。岸和田BBは、滝口久さん担当の日が、客とのからみ*1が多くて楽しい。今日の終了間際の「あ、お父さん、さっきはお魚ありがとうございました!」には、なんだか心がほっこりしました。わたしは打ちませんでしたが、最終レースの後閑の失格で殺伐とした気分になったBB競輪客も少しは救われたのではないでしょうか。コンビニ強盗の2〜3件は未然に防いだものと思慮します。


G1G2の初日は番組屋の裁量が効いて打ち易いから「商いは 短く持って こつこつあてる」(西原理恵子ぼくんち』より)派のわたしにはドル箱なんだけど、なにせ東王座ゆえ、選手になじみがない。S級基本に打っているから西も東もないはずなのに東の選手のレースに印象があまりないのは、四国と関西にしか住んだことがないからか。ぼくんち―スピリッツとりあたまコミックス (1)


それでもなんとか商売できるレースを探したら、3Rが目に入った。
斉藤紳一郎は自在、山内大作は「なるべくなら先行」の意向。点数上位の矢口啓一郎の動きがカギを握るわけだが、4着権利のここはこの手だろうと思い、ズブズブ交わしの交わしの2点勝負。諸橋が斉藤に割り込まれたときはひやっとしたが、幸先よく的中。
ダラダラ打つと西王座の二の舞と思い---それならここでやめとけばいいのだが---その後、自分なりに自信のあった6Rの井上貴の捲りと10Rの岡部の捲りを買ったら、デタラメと裏。浮きは確定させていたからいいものの・・・反省。



リファに「なぜ+競輪が好きか」という検索語が。このエントリが引っかかったみたいだけど、この機に、わたしが「なぜ競輪が好きか」について記してみたいと思う。
一言で言うと、「推理の面白さと競輪場の空気感」ということになる。
後者についてはそのうち書くことにして、このエントリでは「推理の面白さ」について。


もう少し具体的に書くと「非合理な要素を材料に論理的思考を組み上げてゆく楽しさ」ということになろうか。・・・なんのことやら分からないですね。
「非合理な要素」とは、ライン戦やいわゆる「競輪道」のこと。全員がそのレースの一着を目指す競走の建前からすれば、二段駆けの先頭選手の走りやマーク屋の「仕事」は非合理以外のなにものでもない。
「競輪は社会の縮図」とよく言われる。阿部謹也の著作をどれでもいいから読んだ方なら分かると思うが、ここでいう「社会」は「世間」と言い換えられる。そういったものに自分自身はなるべく関わりたくないが、傍から観ているぶんには面白い。もちろん、義理人情や意地のために着を度外視する選手の姿も。この時点ですでに他の公営競技と大きく違う魅力がある。
脚力だとかタイムだとか以上にそれらの非合理な要素を予想に組み込まなければならないのが競輪の面白さのひとつ。


「世間」とは何か (講談社現代新書)


そして、展開を予想して買い目を選定する作業には論理的思考が要求される。
まず、(ラインの思惑や義理人情を判断材料に)ラインの動きを予想する際には、Aラインがこういう動きをすればBラインはこう出るだろう、あるいは、Aラインが先行すれば番手のaはBラインをブロックするだろう、といった思考を積み重ねる必要がある。展開をひとつに絞れないときは、頭の中でフローチャートを書かなければならないこともある。
そして、頭の中で書いた展開の論理的帰結が自分の買い目になるわけだから、この帰結を導き出す作業も慎重かつ論理的にに行う必要がある。
これらの知的作業をしているときのアドレナリンの噴出がもうひとつの競輪の魅力だ。


かくも面白い競輪なんだけど、以前、このような競輪の推理の理屈を初めて行く人に開帳したところ
「そんなややこしいもん、今の若い人が好き好んでやるわけないですわなー」と言われた。そらそうか。

*1:客の声はこっちには聞こえないんだけど