なぜ競輪道か


 東王座戦開催中ですが、四国の口座崩壊客は全然関係ないこと書きますよ。はてブの注目エントリに武士道に関するエントリがいくつか上がってて*1、それでちょっと思いついたので。


 以前、KEIRIN化は「競輪道」を崩壊させるからダメだみたいなことを書きました(参照)。そんなこと書くとなんだか古い競輪客みたいですが、わたしゃTV観戦歴を含めてもせいぜい10年ほどのキャリアしかありませんし、「最近の若い選手はてめえのことしか考えないでけしからん」なんてことも思いません。あの文章で意図したのは、競輪道的なものを愛する古くからの客を失う恐れを指摘することでした。


 どちらかというとわたしはそういう○○道みたいな漠然とした規範をうさんくさがるほうです。○○道の代表格は言わずとしれた「武士道」ですが、これはウィキペディアによる解説を読んでいただければ分かりますように、武士の時代の終わった明治期になってひねり出された規範です。この辺についてさらに詳しく&面白おかしく知りたければこちらがお薦め→
反社会学の不埒な研究報告


 競輪道についても、全選手がそれを遵守すべしとかはこれっぽっちも思いません。先ほども書きましたように若い選手を憂いたりもしません。「競輪は社会の縮図」とも言われますが、若い手前勝手な選手が増えているとすれば「社会の縮図」の面目躍如ではないですか。


 ただ、いろんな選手が居た方が面白いと思うのです。例えば、北日本の徹底先行選手と、それよりちょっと格上の捲り屋2匹の三分戦があるとします。北日本地区は徹底先行選手1人です。その番手に行くのが例えば高木隆弘か小橋正義かで予想思考は異なってきます。高木なら捲りをブロックして止めるであろうことをまず考慮します。小橋ならブロックより捲りに飛び付くケースを考えることになります。競輪選手は先行選手、捲り選手、追込み選手と脚質によってカテゴライズされますが、これだけで予想が成り立つわけではなく、まあ、成り立たせることもできますが、選手の性格や寄って立つ自己規範、人間関係等を加味することでよりコクが出るわけです。


 しかし、KEIRINになるとそういったコクを出す要素がほとんど強制的に排除されてしまいます。KEIRIN化の名目はスピード化ですが、博打の駒は従来と同じですからルールを変えただけで目的がちゃんと達せられるとは思いません。それよりも、失われてしまう選手の多様性=予想の多様性のほうが大きいのではないかと思うのです。その多様性のひとつとしての競輪道を支持します。
 

 
 
 
 

*1:どうもブクマスパムみたいですけど