競輪的リアリズムの興亡


 『動ポモ』は去年初めて読んで、非常に納得するとともに他文化への応用も効く理論だなあという感想を受けたのですが(参照)、この続編は丁寧に論を深めていっている割に、肝心の「ゲーム的リアリズム」の頁になると大風呂敷を広げているような…という感想を抱いてしまいました。「ゲーム的リアリズム」という方法論で作品を読み解いていく第2章で採り上げられているライトノベル美少女ゲームにわたしが疎いからでもあるんでしょうけど。2006年に読んだ前著が、同じように疎い題材を採り上げていながらわたしを大いに説得したように、そのうちポンとひざを叩くような瞬間が訪れるのでしょうか。


 さてここは競輪ブログですから、ここからはキーワード経由でアクセスしたインテリの皆様をぶっ千切って競輪の話をしますよ。


 公営ばくちをやらない人に競輪を説明するとき、よりポピュラーな中央競馬との比較を用いることが多いのですが、ギャンブル性は置いておいてその物語性というかあえて言わせてもらうと文学性を「競馬はファンタジー、競輪はハードボイルド」と表現することがわたしはよくあります。ええと、ちょっと誤解を招く表現かもしれないので、それについて過去に書いた文章(参照) を引用しておきます。

よくわたしは「競馬はファンタジー。競輪はハードボイルド」と人に説明します。馬自体の「ドラマ」はまったくよくできたファンタジーだし、調教師や騎手や馬主のドラマも、馬という人智の及ばない生き物をつけ加えることでファンタジー性を帯びます。競輪は生身の人間のみの世界です。3分間の、とても饒舌とはいえない淡々としたレースの中に、生の裏切りや挫折や欲望や人情が過剰に表現されます。別に優劣をつけようというお話ではありません。予想の仕方やビジュアル面なんかを別にして純粋にドラマ性だけを比較すればこういう違いがあるというだけのことです。客は、より好みなほうを打てばいい。


 この比較を、上の本が採用している文学の区分で言いますと競馬は「まんが・アニメ的リアリズム」、競輪は「自然主義的リアリズム」となりましょうか。文学での具体例を挙げますと前者はライトノベル、後者は純文学となります。そうです、競輪は純文学なのです。ただ競馬の場合、ダービースタリオンのような血統競馬ゲームの経験を踏まえて実際の競馬を見ているファンも居そうですから、そういうファンは「ゲーム的リアリズム」でもって競馬を見ているのかもしれません。


 このポストモダンな時代に受けるのは前者。特に若者を考えた場合には顕著です。中央競馬が売上げを減少させながらもいまだ若いファンをつなぎとめているのはこういう観点からも説明できるかもしれません。競輪はかつてのJ-文学のようにニッチな市場を狙うしかないのでしょうか。


 ええと、風邪引いちゃってフラフラな関係もありまして本で使われている概念の説明をほとんど端折っちゃったので訳分からん文章になった気がしないでもないですが、上の本と合わせて

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


 ↑これも合わせて読んでいただければいいたいことは分かっていただけるものと考えております。