世間と競輪

・・・競輪が世間の嫌われ者という、なにをいまさらな話ではなく、日本の競輪のライン戦は阿部謹也の世間論そのものの世界だというお話。
阿部謹也先生は、西洋と違い、日本には「社会」も「個人」もなく、ただ「世間」だけがあると説く。ごくごくかいつまんで言うと「世間」は「個人」を殺すわけだけれど、ライン戦における「新人は先行してナンボ」だとか「敵ラインをブロックして、ギリギリまで先行選手を残すのが正しいマーク屋の姿」だとかのライン戦の暗黙の掟なんかはまさにそうだ。以前先行して引っ張ってくれた逃げ屋を、次に連携したときは逆に引っ張り返してあげることもある。野球の送りバントや、サイクルロードレースでのアシストとは性質が違う。それらはチーム内での役割分担だけれど、競輪選手はあくまで自営業者だから。
韓国競輪は日本の競輪をモデルにした割に、こういったライン戦の要素は少ないと聞く。オリンピックのケイリンなんかでも同じ国の選手が露骨に連携することはない。
また、日本の教育では「建前」しか教えられていないことの問題点を先生はよく指摘する。競輪学校の学科教育でも規則の遵守や常に1着を目指すべきことについては教えるかもしれないけれども、落車事故に繋がりかねないマーク屋の仕事内容を教えることはないはず。
「競輪は社会の縮図」とよく言われるが、まさに面目躍如なのかも。「ラインは世間の縮図」
でも、私にとっての競輪の魅力は、他の公営競技にはないそういったライン戦のしがらみや人間関係が推理に奥深さを与える点なのだ。ということは、「渡る世間・・・」をなんやかんや言いながら毎週観てるおばはんと根は同じなのかもしれない。

「世間」とは何か (講談社現代新書)