あるべき競輪場の姿を考える(1)

「消えて久しい村祭り」・・と競輪を表現したのは友川かずきだったが、その村祭りさえも着々と終焉を迎えようとしているのは周知の通り。しかし、不思議なことに競輪場の大改修は全国各地で行われている。昨日記念競輪が終了した別府、移転して完全に建て直す松山、それにいわき平など。財源は儲かっていた時代に積み立てていた金だろうけど、それを不用意に取り崩せば、赤字時に即自治体の一般財源に頼らざるを得ないことになり、一気に廃止に繋がるのは自明。近年大規模な改修をしている競輪場が田舎に多いのは偶然だろうか?特別競輪を誘致するためという大義名分もあるが、田舎の箱モノ行政の一環ともとれる。箱モノ行政の一環と考えれば、後先考えずに大金をつぎ込むのも佃煮にするほど例がある話であり、合点がいく。自治体の長も役人も、自分の任期や担当中に潰れさえしなければ競輪なんてどうでもいいのだ*1
なかには、施設をきれいにすれば売上げが一気に好転すると本気で考えてる施行者もいるかもしれない。しかし数年前に大改修を行った高知は現在も赤字に喘いでいる。確かに一般的に競輪場は汚い。昭和40年代すでに他の公営競技より施設が汚いという調査結果があったくらいだから慢性的に改修が後手後手に回っていたのかもしれない。
競輪草創期、競輪場の施設は木造だった。戦後すぐの物資不足だから当然の話だけど、その木材を拠出してもらうのにも関係者がGHQに直接掛け合うなどの苦労があった。しかしその後すぐに鉄筋コンクリート化される。木造建築物は焼き討ち・暴動に弱いからだ。競輪が始まり大人気になると、次に待っていたのは騒乱の時代だった。大勢の客を集めたはいいが、ルールや自転車競技の特性をちゃんと理解している客ばかりではない。素人集団の選手や競技会も似たようなもので、変なレースになるとすぐ騒ぎが起きる。代表的な騒乱の鳴尾事件ではスタンドが焼かれ、警官の流れ弾で死者まで出た。そして、この鳴尾事件が直接のきっかけとなって、全国の競輪が二ヶ月間の開催自粛を余儀なくされた(続く)。

*1:小松島市長や前大津市長などの一部の例外を除いて